BUNT NEWS
Radio bunt リニューアルのおしらせ
MILCH/02 NEW ARRIVAL
『わたしを離さないで』『日の名残り』などの長編で有名なカズオ・イシグロの短篇集。
音楽と夕暮れをめぐる五つの物語、という副題どおり、音楽をテーマにした5篇が収録されている。
老歌手、ジャズミュージシャン、チェリストなど、登場人物の扱う楽器はさまざまだが、共通しているのは「人生の夕暮れに差し掛かっている」ということ。
たとえば、『老歌手』に登場する往年の名歌手。
彼はハネムーンの地、ベネチアへ妻とともに再訪している。主人公でギタリストの「私」は、老歌手の依頼によりゴンドラへ同乗し、彼が妻へ捧げるセレナーデの伴奏をする。
こうして見るとただの良い話のように思えるが、実は、この夫婦は別れを目前としている。
愛情がなくなったわけではない。互いに深く愛しあいながらも、彼らには別れざるを得ない理由がある(その理由というのがまたバカバカしく、それが逆に悲哀を感じさせる)
だからこそ、彼が歌うセレナーデには、別れ行く妻への痛切な愛と悲しみが込められている。
『降っても晴れても』は唯一、音楽家の出てこない作品。
主人公は冴えない独り者の英語教師で、成功者である昔馴染みの友人に頼まれ、彼の妻エミリに会いに行く。
友人はエミリとうまくいっておらず、惨めな境遇の主人公と自分とを比較させることで、彼女の愛情を取り戻そうとしていた。
だが、主人公がうっかり覗き見たエミリの手帳を損傷してしまったことから、事態はとんでもない方向へと転がりだしていく……。
コメディ的要素が強い作品だが、どこか物悲しくもあるのは、この話の登場人物がみな「失いつつある何か」、あるいは「すでに失われた何か」への思慕を抱いているからだろう。
とはいえ、大鍋で煮こまれた革靴のシーンは、やはり笑ってしまう。
他にも、チェロを弾かないチェリストとその弟子の話や、売れるために整形をするサックス奏者の話など、音楽にまつわる色彩豊かな短編がおさめられている。
どの作品にも静かな哀愁が通奏低音のように響いているが、読後感は不思議と軽い。
夏の夕暮れに、ジャズでも聴きながら読みたい一作である。
2015年8月8日は暦の上では「立秋」ですが、日本列島は猛暑の日が続いています。
夏が大好きだった私も、さすがにこの暑さには耐えられなくて、できることなら日が沈むまでクーラーの効いた室内に籠もっていたいと切に思います。
そんな中、真夏の太陽の陽射しをいっぱいに受けて元気に咲く花があります。
夏のイメージでいちばんに思い浮かべる花──そう、向日葵(ヒマワリ)です。
太陽神アポロンはゼウスの神の息子で、双子の妹に月の神アルテミスがいます。類まれなる美貌と、均整のとれた肉体を持つアポロンは女性の憧れでした。
そんなアポロンに恋い焦がれた水の精クリュティエ。彼女にできることは、ただアポロンの姿を見つめることだけでした。
黄金の馬車に乗ったアポロンが東の空から出て、太陽の道を駆け巡り、西の地に沈むまで同じ場所に佇んで見つめ続けます。
口にしたのは、朝露と自分の涙だけ、そして9日9夜が過ぎ、ついにその場で倒れてしまい一輪の花になってしまいます。
このギリシャ神話で、太陽神アポロンに恋したクリュティエがメタモルフォシスした花が向日葵でした。
学名はギリシャ語で「Helianthus annuus=太陽の花」、和名の「向日葵(日回り)」は太陽の方向に回るということに由来しています。
しかし、実際に太陽の方向に向かうのは花が咲くまでで、開花後は東を向いたままで止まってしまい、また品種によっては例外もあります。
もう一つ、この花を見て思い出すのは1970年に日本で公開された、イタリアの監督ヴィットリオ・デ・シーカの反戦映画『ひまわり(I Girasoli)』です。
第二次世界大戦のイタリアで、ソ連(現ロシア)戦線へ出征したまま行方不明になった夫アントニオ。
夫の母の面倒をみながら何年も待ち続ける妻ジョバンナは、アントニオの消息を求めて関係局へ日参するも、確かな手がかりを得ることができません。
そんなある日、同じ部隊だった男から夫が極寒の雪原で倒れたと聞き、ロシアへ旅立ちます。
言葉も通じない異国で、夫の写真を見せながら消息を訪ねて歩くジョバンナ。ある日写真の男を知っているという人物に会いその家を訪ねますが、そこには残酷な現実が待っていました。
かつての戦場だった場所には広大な向日葵畑。その近くの村で暮らす美しいロシア人女性と子供。探し求めた夫は雪原で凍死するところを彼女に助けられ、結婚していたのです。
戦争がもたらした悲劇を描いたこの映画は、グレン・ミラー楽団のピアニスト兼アレンジャーで、
『ティファニーで朝食を』『シャレード』などの映画の音楽監督でも有名なヘンリー・マンシーニの音楽の素晴らしさもあり、世界中の人が涙した名作です。
映画ではオープニングとエンディングに、広大な向日葵の花畑が映しだされます。
それは戦争の悲惨さとそれを主導するものへの怒り、その理不尽な運命の中で、希望を捨てずに明日に向かって生きていく人々への象徴としての花なのだと感じました。
池袋にはトルコを味わえるパン屋さんがある。
サクッとした食感と、ほんのり塩の効いたパン生地は、トルコ独特の風味はがあり、癖になる。
今まで食べたことのないパンといってもいい。生地自体の味がしっかりしているので、それだけを食べても良いし、食事にもよく合う。
ホロホロとした生地なので、食事に合わせるならシチューなどがいいだろうか。
いっそトルコ料理に挑戦してみたい気分。
トルコ人がつくる本場のトルコパンの店『デギルメン』は、2013年にオープンした。
店名である『デキメルン』は製粉所という意味。
オーナーのオメル氏は、日本でトルコパンを作るにあたって、トルコと日本の食材の違いによる苦労をしたそうだ。
パンの原料である小麦粉もトルコ産は入手が難しく、日本の小麦粉を何種類も試し、なんとかトルコの味に近づけた。
砂糖や塩、胡麻などもトルコのものとは質が違い、本場の味を出すためには常に研究が必要なようだ。 パンを焼く釜にもこだわりがある。
トルコの都市であるコンヤで採れた石を使用した釜を使い、トルコパンが焼きあがる。
店内はそんなトルコパンが何種類も並び、それぞれ説明書きがされている。
つやつやとしたパンがずらりと並び、どれも美味しそう。
選ぶのに時間がかかってしまったが、なんとか4種類ほど購入した。
その中でポアチャは、トルコの一般的な惣菜パンで、牛肉を使っており、味がしっかりとして小さいながらも満足感があった。
ビスケットのようなサクサクした歯ごたえと、塩味、牛肉のしっとり感が癖になる味だ。
トルコはイスラム教徒が多く、ハラールと言われる宗教上の食事の基準がある。
豚肉を食べることは禁止されており、また他の食品でも加工や調理に作法が要求される場合もあるのだが、
デギメルンはその基準を満たしたトルコパンが多く販売されているので、池袋近郊に住むイスラム教の外国人たちも頻繁に訪れるようだ。
トルコ人にとってパンは、日本人にとっての米と同じで、切っても切り離せない存在のようだ。
それは、紀元前7000年のチグリス、ユーフラテス流域である、イラク、トルコ、シリアの土地で小麦の栽培が始まったことに由来するのかもしれない。
トルコ人にとってかけがえのないトルコパン、デギルメンでぜひご賞味あれ。
夏になると読み返したくなる本、というものがある。
春や秋や冬が凡庸だというわけではもちろんないが、夏という季節は、やはり人にどこか特別な感慨を抱かせる。
アスファルトに落ちた濃い影や、煩いほどの蝉の声。波濤の轟きと、足の下で砂が流れていくあの奇妙な感触──。誰しもが、心の奥に特別な夏の風景を持っている。
今回紹介する『レクイエム』も、そんな夏の光景を思い起こさせる小説だ。
舞台は七月のリスボン。主人公である「わたし」は、とある詩人(のちに、この相手はポルトガルの巨匠・フェルナンド・ペソアだとわかる)と待ち合わせをしている。
待ち合わせが昼の12時ではなく、夜の12時だということに気づいた「わたし」は、あてどもなく灼熱のリスボンをさまよい歩く。
そこで「わたし」は、死んでしまった友人や恋人、若き日の父親などの死者たちと出会う。
だが、それらの邂逅は決してドラマティックではなく、ごくさりげない、当たり前の日常のように描かれる。
そうした出会いと別れの中には、死者だけでなく市井の人々も含まれるのだが、生者であるはずの彼らが本当は亡霊なのかも知れず、
はたまた、語り手である「わたし」自身、本当に生きているのか、死んでいるのかすら、わからなくなっていく。
こう書くと、非常に読みづらい物語のように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。
幻想の中に深く沈み込むような読み口は心地よく、軽い酩酊感とともに見知らぬ土地を見て回る楽しさを味わえる。
さらに特筆すべきは、この本が「美味しい」描写に満ちていることだ。
巻末に章ごとの料理一覧がまとめられていることからもわかるように、「わたし」は行く先々で様々な料理を口にする。
インゲン豆のスープであるフェイジョアーダ、魚介類でつくるパン粥、子羊の肉と臓物のシチュー……、日本人には馴染みの薄いものばかりだが、どの皿も旨そうで思わず喉が鳴る。
なかでも、国立美術館のバーテンダーが供するカクテル(ウォッカが四分の三、レモンジュースが四分の一、ミントシロップ小さじ一杯を、氷と一緒にシェイクしたもの)は印象的だ。
リスボンを訪問する予定はないが、もし行く機会があれば、きっと国立美術館のカフェへ足を運ぶだろう。
たとえ、大統領にカクテルを作ったという、そのバーテンダーはおらずとも。
著者のアントニオ・タブッキはイタリアの幻想作家で、代表作として上記の『レクイエム』のほかに、映画化もされた『インド夜想曲』や『遠い水平線』などがある。
夢と現実のあわいを縫うように描かれた作品は、幻想文学でありながらも、どこかリアルな手触りを持って読者に迫ってくる。
タブッキの小説は五感を刺激する。
それは、たとえば肌を焼く灼熱の日差しであったり、蕩けるようなスープの味であったり、過剰に拡大されたヒエロニムス・ボスの絵だったりする。
だからこそ、読者はまるで自分が見てきたかのように、小説内の光景を思い浮かべることが出来るのだ。
優れたフィクションは現実に勝る。
夏が来るとタブッキを読みたくなるのは、そうして刻まれた記憶を反芻するためなのかもしれない。
「愛しい人よ、これがローズマリー、思い出の花。お願い、いつまでも私を忘れないで」
これは、シェイクスピアの四大悲劇『ハムレット(Hamlet)』の第四幕第五場。
狂気のオフィーリアが腕にいっぱいの花を抱えて、宮廷の大広間にいた自分の兄を恋人ハムレットと思い、ローズマリーを手わたして言う台詞です。
物語は、ルネッサンス期(1600年頃)のデンマーク。
王子ハムレットは、父を殺し母を奪って王位についた叔父に復讐をするため狂気を装います。
そして目的のため、恋人オフェーリアにさえ自分の気持ちを偽り「尼寺に行け」(この頃の尼寺は娼館でもあるとの記述がある)と残酷な言葉を浴びせるのです。
悲劇は続きます。ハムレットはオフィーリアの父で王の重臣であったポローニアスを、叔父と間違え刺し殺してしまうのです。
オフィーリアはついに正気を失い、間もなく川で溺れ死んでしまいます。誤って落ちたのか、自殺だったのか、その様子は王妃ガートルードの言葉によって語られます。
オフィーリアの物語は絵画のモチーフにつかわれることが多く、たくさんの画家が彼女の美しい姿をキャンバスに残しました。
そのなかでも代表作といわれるのが、ジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais, 1829−1896))です。
この絵はミレイの代表作というだけではなく、「ラファエル前派」を代表する作品でもあり、写実的で緻密な自然描写が秀逸です。
絵の中には、異なる季節の花が混在してます。そしてそれぞれの花には意味が込められているのです。
柳(見すてられた愛)、 野バラ(喜びと苦悩)、ミソハギ(純真な愛情)、スミレ(誠実、純潔、貞節)、 ケシ(死)、パンジー(叶わぬ愛)、
ナデシコ(悲しみ)、ヒナギク(無邪気)、バラ(愛)、忘れな草(私を忘れないで)、キンポウゲ(子供らしさ)=探してみてください。
狂気のオフィーリアが、ハムレットだと思って渡した「ローズマリー」。
和名はマンネンロウ。
花言葉は「思い出」「記憶」「貞節」「誠実」「変わらぬ愛」と記憶に由来するものが多く、
その成分である、シネオール、カンファー、ベルベノンは頭脳を明晰にし、集中力、記憶力を高めるといわれ、そのことから、アロマテラピーでは「記憶のハーブ」とも呼ばれています。
そして最近では、精油の成分が「認知症」に効果があるとして、医療の現場でも注目されることになりました。
ローズマリーのハーブとしての歴史は古く、14世紀イタリアの修道院でつくられたローズマリーのエキスを抽出した
「ハンガリー水」が老齢のため健康を害していたハンガリー王妃エリザベートに献上されます。
そしてこの「ハンガリー水」の効果は、健康な身体と、50歳も年下である隣国ポーランドの王子からのプロポーズされたというエピソードから「若返りの水」の別名を持つことになります。
オフィーリアの悲劇とエリザベートの幸運。
狂気になることで、ハムレットへの変わらぬ愛を貫いたオフィーリアと現実の世界に生きて幸せになったエリザベート。
一つの花にも数々の物語があります。
道端や公園、花壇にある植物をみたとき、その花にまつわるエピソードを思い出すことで、ますます植物との距離が近くなっていくことでしょう。
梅雨の長雨がつづく季節。この雨が降ることで美しく花を咲かせる植物があります。
「睡蓮」です。この名前があらわすようにこの花は、朝に開花し夕方に閉じる(睡る)からだといわれています。
古代エジプトではナイル河の睡蓮を神の象徴とし、神聖な花として神々を飾るための装飾品や建築のレリーフとして描かれています。
また、睡蓮の花からは穏やかな鎮静作用のある香料が抽出でき、香水や香油として儀式などにも利用されていました。
今回は「睡蓮」に因んだ話を2つ紹介したいと思います。
舞台は1947年、ヴィアンが創造した虚構のパリ。
デューク・エリントン編曲の『クロエ』が好きな青年コランは、パーティで会った同じ名前の少女「クロエ」に恋をして結婚します。
しかし、クロエは “肺に睡蓮が寄生する” という不治の病にかかってしまい、愛する妻のためコランは、睡蓮の花が大きくならないよう、いっぱいの花で部屋を飾るという威嚇治療法を試みます。
レイモン・クノーが「現代における最も悲痛な恋愛小説」といった、ボリス・ヴィアンの小説『日々の泡(L'Ecume des Jours)』のストーリーです(※)。
曲によって様々なカクテルを調合するピアノや蛇口からウナギのでる洗面台。コランを理解する人間のようなハツカネズミ。クロエとコランの最初のデートでは、シナモン・シュガーの味のするバラ色の雲が降りてきて二人を包む。などなど。
物語はシュールでファンタスティックです。しかし、終わりに近づくにつれて残酷になっていきます。
この物語の大きなインパクトになっているのは、何といっても「睡蓮」です。
この美しく清らかな花が、正反対の禍々しさを表すものと描かれることで、物語はいっそう悲惨さを増しているのです。
そして、もうひとつ、この花で思い浮かぶのは、印象派を代表するフランスの画家クロード・モネの『睡蓮』の連作です。モネは42歳の1883年に、フランスの田舎ジヴェルニーに移り住みます。そして庭園づくりが始まるのです。エプト川の水を引き込んで睡蓮や柳などを植え、日本風の橋をかけ細部にまでこだわった、モネにとっての理想の庭園こそが作品の源泉ともいえます。
睡蓮の庭をこよなく愛したモネは、1899年から亡くなるまでの27年間に200点以上もの睡蓮の絵の制作したのですが、晩年は白内障で失明寸前だったのですが、睡蓮の代表作ともいわれるパリのオランジュリー美術館の2部屋を占める大壁画を描くために手術を受けます。
しかし、モネ自身はその作品に満足はしていなかったと言われています。
モネの「睡蓮」は世界中に運ばれ、それぞれの国で観た人の心を捉えたことでしょう。そして、絵画を通して見えたものは、モネが生涯を捧げたジヴェルニーの「睡蓮の庭」なのだと思います。
※レイモン・クノー:フランスの詩人・小説家。『地下鉄のザジ』や『文体練習』などの実験的な作風で知られる。
『日々の泡』は、『うたかたの日々』という別名でも出版されている。
ミシェル・ゴンドリー監督の映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』が2013年に公開された。
夜中になるとメゾンに亡霊は現れる。クチュリエ(お針子)の仕事を一つ一つ手にして、それを眺めているのだ。靴音が誰もいないメゾンに響く。
ディオールという巨大なメゾンはさながら生き物のように、ファッションの歴史を歩んできた。
それは、クリスチャン・ディオールという稀有な天才が、彼の才能と情熱を余すことなく注いで作り上げた、血の通ったブランドだったからだ。
ディオール氏が亡くなって50年以上経っても、メゾンでは彼の意思が受け継がれている。
その証拠に、夜中に部屋を歩き回るディオール氏の亡霊の噂をする時、クチュリエらは愛情と尊敬をもって話をしているように感じた。
2012年、空になっていたアーティスティック・ディレクターの席に、ラフ・シモンズが就任する。
ディオールにとって、これは大きな挑戦だった。
何しろ、ラフにはオートクチュールの経験もなく、ミニマリストとして知られていたためだ。
通常半年を要するパリ・コレクションの制作期間、これをラフはわずか8週間の間にやってのけなくてはならなかった。
その怒涛の8週間を追った、ドキュメンタリー映画が『ディオールと私 』である。
華やかで美しい一着の洋服を生み出すために、頭の代わった巨大なクリスチャン・ディオールという名の生き物の心臓部(メゾン)で壮絶な戦いが、繰り広げられる。
そこでは、プロフェッショナルなクチュリエたちが、メゾンの一員であることのプライドと情熱を持って仕事をやり遂げる。
すべての人々が一つの目標、つまりクリスチャン・ディオールというメゾンの生み出す芸術に向き合っている。
プレッシャーの中でもがくように8ヶ月を過ごしたラフ・シモンズ。彼は五感を刺激し、常に信念を持ち続け、そのビジョンを形にしていく。
スターリング・ルビーの絵画をコレクションに取り入れる為、技術的にも時間的にも難しい条件の中、そのアイデアに固執し続け、スタッフを困らせた。
しかし彼のそのエゴイスティックなまでの執着心は、ラフ・シモンズらしさを体現したオートクチュール作品として現れる。
そして、ラフの無理難題を実現させようと必死に尽くすスタッフもディオールのオートクチュールを体現する上で欠くことのできない存在なのだ。
ラフにとって、就任後初のオートクチュールがどれほどの重圧だったのかは想像を絶する。
ショーが始まる前の、不安と緊張でいまにも倒れそうな彼の姿を見ているだけでも、私にとっては、逃げ出したいほどの苦しさを感じた。
映画のラストでは、ラフが観客の前に姿を見せるために、階段を駆け上がっていくシーンがある。
ディレクターの制止も聞かず、急いだ気持ちを抑えきれない子供のようなラフに、私は彼の心情を思い、泣き笑いのような顔になっていたに違いない。
この映画について、フレデリック・チェン監督はこう述べている。
「ラフ・シモンズはヒッチコック作品の『レベッカ』に登場するミセス・ド・ウィンターと同じ気持ちではないかと。
屋敷の前の主人の亡霊におびえる主人公だ。ラフ・シモンズのストーリーは束縛からの解放である」
屋敷の前の主人とは、おそらく前アーティスティック・ディレクターのジョン・ガリアーノではなく、クリスチャン・ディオール氏のことだろう。
彼の亡霊を、メゾンの中でラフは見たのかもしれない。あるいは自分自身の中に。
「アフター・デイズ」という映画があります。
地球から人類が消滅した後の世界をえがいた物語です。
地球に人類のいなくなった世界では、数時間後に電力が止まります。動物たちの生き残ったものは野生化し、植物は荒廃したビルのコンクリートに根をはり、増殖していきます。
原子力発電所が爆発し、大洪水がおこり、文明の痕跡がつぎつぎと消えていきます。
そして地球を覆う森は氷河期になるまで残っていく、というストーリですが、これが仮想であるにしても、植物の生命力は驚くべきパワーを持っていると思います。
事実、広島の原子爆弾投下の後、100年は草木も生えないだろうといわれていたのですが、植物は何日もたたないうちに芽を出したそうです。
植物の力は太古の昔から認められ、伝承されてきました。西洋ではハーブとして、東洋では漢方や民間薬として常に私たちの身近にあり、その恩恵を自然から受け取ってきました。
都会で生活する私たちの環境はストレス社会といわれ、多くの人たちがそのストレスを緩和させるための方法を実践していますが、その中でも、自然にふれることは大きなリラックスを与えてくれます。
1990年代後半にイリノイ大学:景観・健康研究所所長のFrances Kuo氏がシカゴのサウスサイドにある大規模な公営住宅団地『Robert Taylor Homes』の女性住人たちにインタビュー調査を行ないました。
一連の数学テストで被験者にストレスを与え、その後、樹木が生えた芝生が見える窓辺で過ごすグループとその風景を大型プラズマテレビに写して見せたグループ、殺風景な壁の前で過ごすグループに分けます。
実験の結果どのグループがいちばんストレス低下したか、もちろん始めの自然の風景です。
しかし、ここで驚くのはテレビに写された自然と壁の差がほとんどなかったことです。
窓辺の自然とテレビの自然──見ることとしての違いはないようなこの二つのことを人はどのような差をもって感じているのか興味深く思います。
もう一人紹介したいのが、日本を代表するプラントハンター(※)西畠清順さんです。
西畠清順さんの実家は、幕末から140年以上も続く植物の卸屋「花宇」 それが今の職業を選択したルーツになっているそうです。
年に12〜15カ国をまわり、現地でなければ手に入らない植物を入手し、日本に輸入しています。
園芸用の大型植物の90%は西畠さんの会社で扱ったものです。
西畠さんが日本に持ってきた植物は都会を緑で覆い、また無機質な建築内部の空間に生命を創出して、私たちの心を和らげてくれます。
西畠清順の展覧会がポーラ・ミュージアムで開催されます。
「ウルトラ植物博覧会」西畠清順と愉快な植物たち
http://www.po-holdings.co.jp/m-annex/exhibition/
そら植物園
http://from-sora.com/
”おれは植物が好きで、植物をはさんだ会話というのは、人種も年齢も、性別も国境を超えると言い続けているけど、やっぱりそうだと思う。”
この言葉のように、植物はすべての境を超えて人の絆になっていくものなのでしょう。
※プラントハンター( Plant hunter)とは、主に17~20世紀中期にかけてヨーロッパで活躍した職業で、食料・香料・薬・繊維等に利用される有用植物や、観賞用植物の新種を求め世界中を探検・冒険する人のことで、現在でも存在する。
written by 天野葉月(HOLISTIC GARDEN)
http://www.ratna-devi.com/garden/
2013年、世界で最も素晴らしいヒューマンドラマが誕生した。
同年のSXSW(サウス・バイ・サウスウェスト)映画祭でのワールドプレミア以降、世界中で30もの映画賞を受賞したこの作品は、
観る人を感動させること間違い無しのヒューマン・ドラマ映画である。
ネグレクト(虐待や育児放棄)によって傷ついた子供たちを、一時的に預かる短期保護施設「ショート・ターム」。
そこで働く主人公のグレイスが、ガラスのように繊細な子供たちとの付き合い方や、自身との向き合い方、恋人との距離など、
様々な問題に対し、悩み苦しみながら自分なりの答えに近づいていこうとする物語。
物語の中心となる、一人の少女ジェイデンの入所をきっかけに、グレイスは自身が封印していた過去のトラウマと向き合うことになる。
施設の子供たちは、社会に置き去りにされたような不安、愛されないことへの悲しみ、暴力に対する恐怖など、押しつぶされそうな心の闇を持って過ごしている。
彼らのその痛みは、ネグレクトを経験していない人々にとっても、少なからず共感することができると思う。
ストーリーはもちろん素晴らしいが、ここでは演出の素晴らしさを強調したい。
闇を抱えた子供達の心と対照的に、映画全体のカラーが暖色系を多く使った、温かみのある配色にしていることが、この映画が優しさに溢れた作品であることがわかる。
施設の子供達の部屋のインテリアや、服装においては、それぞれの個性が見て取れるし、グレイスの自宅も、良く観てみると、
子供達が書いたような絵画が並んでいて、細やかな演出にも気を配っている様子分かる。
そしてなにより、登場人物の一人になったような視点で観れるのは、この映画が手持ちカメラで撮影されていることによると思う。
印象に残るシーンとして、プロローグとエンディングをここで取り上げたい。それぞれのグレイスの心境の違いを、みなさんはどんな風に感じるだろうか。
監督であるデスティン・ダニエル・クレットン氏は「こういう仕事を選んで、児童養護施設で働くスタッフこそ、本当のヒーロー」とインタビューで語っている。
ヒーローとは、弱いものの心に寄り添い、守り、自身も傷を負って悩み苦しみ、最後には希望を見出して未来へとそれをつなげていける存在。そんな人物。
『ショートターム』次回作として『The Glass Castle(ガラスの城の子どもたち)』が決定している。
ジェニファー・ローレンスが主演と製作を務めるということもあり、期待大の注目作品となりそうだ。
『体の贈り物』は連作小説として11編の物語が収められている。
その中で「汗の贈り物」は雑誌『オリーブ』に掲載され、オリーブ少女たちから反響を得たという。
重い病に侵された人々をめぐる物語は、喪失感と悲しみとを痛切に感じながらも、その人の生きた証のような、かけがえのない贈り物を受け取ることで、希望のようなものを見いだすことができる。
闘病もの小説を好きな人もいれば、抵抗のある人もいるが、大体が死を特別なもののように仕立て、ドラマチックに描いている場合がほとんどだ。
そんな中レベッカ・ブラウンの描く死は、なんとも生々しい。
人それぞれの生き方や、想いをシンプルにストレートに描き、余計な装飾を施さない。それでいて、死にゆく人の体温まで伝わってくるようなリアルさを巧みに表現している。
死はいつも人のそばに存在し、静かに地を這っているのだと感じずにはいられない。
『体の贈り物』は、死と隣り合わせで生きるエイズ患者の自宅に、ホームケア・ワーカーとして通う「私」を中心に描いた断片的な物語を、連作短編小説として収録した作品である。
この作品が素晴らしいところは、並列的に関連する物語の中で、エイズ患者の逃れられない死に対する哀傷や、肉体の苦痛、残していく者への愛惜を巧みに書き綴っていることだけはない。
この作品の魅力は特に、患者たちとの関係により変化していく「私」の有り様が、実に見事に練り上げられ構成されているというところにあると思う。
物語の1篇に、とても胸を締め付けられるような愛情と悲しみを感じる言葉が出てくる。
「ヌグ-ム-シュー」
これは是非読んで、その優しさの溢れる言葉の意味を体感して欲しい。